5月15日日経MJの12ページにマウントフルネスについて書かれた記事があった。
マウンティングの例として、「古典愛読マウント」「俗世解脱マウント」「ニューヨークマウント」
などが挙げられていた。
「古典愛読マウント」は、ビジネス書はほとんど読まず、古典が基本。
「俗世解脱マウント」は、金名声に興味なし。
「ニューヨークマウント」は、ニューヨークに出張だから同窓会に参加できない。
3つのうちNY以外の2つが自分にあてはまる。
しかし、自分はこの3つがマウントになるとは知らなかった。
おそらく、長い間他人と心的距離をとって生活してきたので、それらがマウントになるということに
気づかなかったのだろう。
最近は金儲けに集中しているから、本自体読んでいないが、古典を読む理由は、単にビジネス書より
古典のほうがおもしろいと感じるから。
何回も読めて、文庫は買っても安いし、図書館にいけば岩波などがだいたいそろっている。
俗世解脱については、自分は子供のころからそういう視点で世界を見る習性があったように思うから、
それが普通の方法だけど、そういう視点で周囲を見ると、なぜこの人たちはそれを求めているのか?
それを求めること自体について考えたことはあるのか?などの問いが自然に出てきて、勝手に思考がはじまり、周囲に適合するのにひと手間かかるようになる。
だから、どちらかというと自分はなるべくそれを抑え込むようにした時期もあったぐらいで、
それが世間で言われるマウントになるとは思ってもみなかった。
マウントをとるには、「金がある」「権力がある」「頭がいい」「身体的に強い」など、
社会でより多いほうが良いとされている指標だとすると、
「ニューヨークに出張」から連想できるのは、高い航空券を会社は払っても、その人を
NYに送り込むことで利益が出ると見込んでいるからそうしており、かつその他多数は
そのように出張していないなら、その人は他の多くの人ができない能力を持っており、それは他者より頭がよいという連想につながり、さらに、だから給料が高い人、優れた人、などの連想に社会人の頭の中でつながる、と推測される。
自分も社会活動をしている一人だが、半分だけ足をつっこんでいる状態のような感覚なので、このようにひと手間かければ社会人の感覚を推測することはできる。
それが当たっているかどうかは別にして。
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