47カス目 自由と不自由

不自由の中でいかに自由を感じられるかが個人にとっての自由。

自由に選択していると思ってもそれはすでにより大きな存在に選択されたものの中から選択しているにすぎない。

しかし、大衆のほとんどはそれを自由と感じ、満足している。

それが個人にとっての自由であり、個人にとって重要なことである。

本質的に自由であるかどうかは関係ない。

生まれたときから、監獄にいれば、その中での選択できることが、

その中の人の自由で、それができたときには本人は自由だと感じられる。

その状態の人が、監獄の外を知ってしまい、自分が監獄の中から出られないことも

知ってしまったら、今まで自分が自由だと思っていた自由は、監獄の外の自由と比較され、

その価値が相対的に低く見積もられるかもしれない。

もし、その人が、監獄の外にある自由と、今自分が手に入れることができる監獄の中の自由を

分別して、同じ土俵に乗せて比較しない思考の枠組みを持っておれば、比較しないのだから、

相対的価値づけはされず、どちらの自由もその絶対的価値を維持できる。

しかし、人間は機械とは違い感情という興味深いものを備えており、理性と相反するような

この2項によって最終的意思決定が下されるだろうから、分別できる思考の枠組みを知っていたとしても、常にその思考法が100%機能するというわけでもない。

感情という側面も心理学などという制限条件の中で、一定の規則をある程度見出してきているのも

事実であるが、全てが解明されたわけではもちろんない。

不確定要素があるからおもしろいと感じられる。

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