6カス目 「AIは孤独を癒せるか」という記事を読んで

昨日は疲れていたのか、知らぬ間に寝ており、記事を書いていなかったので今日2本かく。

本日の日経新聞の記事に、「AIは孤独を癒せるか」というタイトルで、

若い世代や一人暮らしをしている人は孤独を感じることが多いとあった。

またSNSを触る人のほうが、触らない人よりより孤独を感じるとも。

相槌をうつCotomoや高齢者向けのElliQなどニーズに合わせた様々な種類があるらしい。

人間より、恥ずかしさがなく、より本音が言える場合もあるという。

使いすぎは依存の恐れもあるとのこと。

以下から、自分の考えを書く。

前提として、孤独を感じる→孤独を消す with something

このsomething の中に上の記事ではAIがあてはめられている。

ほかには、恋人、家族、ペット、友達、観葉植物など近い距離で相手から何かしらの

反応してくれる存在や、

アイドル、アニメ、趣味にはまる、など直接反応はしてくれないが、

こちらから働きかけ続けることで、孤独を感じるスキマをうめてくれる事柄などがある。

今生き残っている人間の多くは、助け合いながら生きてきた先祖の子孫とするなら、

その先祖から、引き継いでいるある遺伝子がある。

その遺伝子は、個体に孤独という「不快」を感じさせ、個体は「不快」を消すために、他者とつながろうとする。結果他者とつながることで、互いに助け合うきっかけが生まれ、生存確率が高くなり、その種が現代まで存続している。

現代では産業革命が起こり、それぞれが分業的に活動することで、直接他者とかかわらずとも、その社会の構成員であれば、恩恵を受けることができ、生活できるようになった。

しかし、今なお、ある遺伝子を内包した個々は孤独を感じ、それを消すためにAIを含めた先に挙げた方法などを取り入れようとしている。

リチャード・ドーキンスの理論に重ねて説明するならこんなところだろう。

これについて自分の意見は二つある。

一つは、原点回帰。

いま孤独を消す方法はたくさん編み出され、選択することができる。

しかし、先祖は直接他人とかかわることで、その孤独という「不快」を消し、

さらに、それにより協力関係になることで生存確率を高めてきた。

それで上手くいっていたのなら、いまもそうすればいいだけ、という考え。

「コミュ障」という言葉があるが、最初はどうしていいのか

わからなくても、とにかく他人とつながる事で段々それなりに、

他者とコミュニケーションをとれるようになると思う。

最初多少我慢が必要かもしれないが、そちらの道に行く方法が一つ。

もう一つは、そもそもの前提について考えてみる方向。

孤独=「不快」という前提は変えることができないのか?

昔は孤独=危険(助け合えない)であったが、今は社会システムが守ってくれている。

すると、生存のために孤独を「不快」と感じる必要性がないかもしれない。

だったら孤独を恐れず、楽しんでみたらいい。

ヘンリー・ソローの森の生活からセンテンスごとに抜粋された、

こんな本はいかがだろう。

読んで興味がわけば、森の生活を読んでみるのもよいと思う。

自分の場合は思い出す限り、最初から孤独=「不快」という式が成り立っていないように思う。

先に挙げた遺伝子を持っていないのか、別の原因か、わからないが、

将来的には自分のような個体が増えてくる可能性は考えられる。

なぜなら、そういった個体(孤独を不快に感じず、結果他人と交わろうとしない)でも、

社会が機能しているなら、個々がそこで利己的に活動しても結果助け合う仕組みになっており、

生き残ることができるからだ。

そんな自分は、昔はどのようにして一人になれるか試行錯誤していたので、

多くの人とは前提が違うが、一人で過ごす時間のいいところはいくつか書く事ができる。

その大きな一つに「集中できる」ということがあげられる。

集中する対象は「思考」だ。

遮られることがなければ、より深く考えることができる。

新しい経験をすることは「快感」である人は多いと思う。

そのために、新しい場所に行き、新しいものを見たり、たべたことがないものを食べたりする。

これは物理世界で得られる「快感」と言える。

一方で思考を深めていくと、これも同様に今まで知らなかった考えやアイデアにたどり着くことがある。つまりこれも新しい経験だ。

これは精神世界で得られる「快感」と言える。

物理世界のほうが5感から知覚するので携わりやすいし、(きれいな景色、おいしい食べ物)共有しやすいため、(他人もその景色をみたり、その食べ物を食べることができる)こちらのほうが人気があると思う。(共有できた実感を得やすい)

一方精神世界というのは、目に見えないし、他人との共有も実感が得られにくい。(相手が痛みを感じその痛みを訴えてもその痛みを自分は想像はできても、同じその痛みを感じることはできない)

だから厳密にいうなら、物理世界でもそれは同様で、

吉野家の一つの牛丼を誰かと分け合って食べても、「相手が感じている牛丼のうまさ」と「自分が感じている牛丼のうまさ」は同じかどうかは確認ができない。科学技術などでうまみを数値化してだしたとしても、所詮それは外から評価しているだけで、(科学とはそもそもそういうもの)

それぞれが感じているまさにその「感じ」は精神世界の現象であるから、物理世界のものさしで測ることはできない。(物理現象でない=空間を占有する存在ではない)

だから、一つ掘り下げると、物理世界で共有していたことも、個々の感じている「感じ」に行きつくなら、共有などできないことになるけれど、少なくとも精神世界は度外視して物理世界だけに目をやれば、一つの牛丼(同じ牛丼)を分け合って、相手も自分も「うまい」と言ったなら、経験を共有できたと幾分言いやすくなる。

などと、一人になることで、延々と思考の旅にでかけることができる。

意味があるない、役に立つ立たない、などという言説に影響させることなく、

思考の旅に出かけるのに必要なのは、集中できる状態と時間だ。

お金が一切かからない旅行なので、商売人も宣伝しなければ、学校でも教えない。

物理世界の旅行は経済活動になるので商売人も一生懸命宣伝しているから、

知る機会が多く、そちらの旅行のほうが人気がある。

学校でも金を儲けて消費し、税金を納め、子供を育てる人間をつくろうとしているのだから、

みんながそっちの旅行にばかり出かけられると困るからわざわざそのような紹介はしない。

ただし、どんな事でもある程度多くの他人がたどり着かない境地に達すると、

必然的に少なくとも希少性を伴う。

この希少性に資本主義的価値をつけるにはマネタイズ(マーケティング)が必要という事になる。

そう考えると、その視点で見ても無価値ということはないと思う。

こういう旅に出かけられると考えると、一人になる(孤独)は

必ずしも悪いものではないのでしょうか。

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